常陸笠間氏の歴史研究

あまり知名度のない国衆。下野宇都宮氏の親類衆。

出雲国笠間氏について

 室町時代の出雲国でも「笠間氏」の名が見られる。

・出雲神門寺文書 康永2年(1343)3月25日付 吉田貞景打渡状

「『後村上天皇吉岡殿渡状』出雲国岡本保国衙分事、任去月四日御奉書、退笠間小法師丸代官、打渡下地於神門寺雑掌候畢、仍為後日渡状如件、」

要旨:岡本保国衙分は同年2月4日の奉書のとおりに笠間小法師丸代官を退け、神門寺(現出雲市)雑掌に打渡されている*1

「岡本保は元弘3年(1333)の綸旨および出雲守護佐々木(塩冶)高貞の寄進状を受けて神門寺領になったと考えられる。*2

 

・三刀屋文書 観応2年(1351)6月13日付 山名時氏奉行人奉書写

「礒武三郎五郎公武申、恩賞地出雲国岡本郷<笠間長門守跡>事、云郷保実否、将亦小法師丸為長門守子息否、載起請詞、可被注申之由候也、依執達如件、

観応二 六月十三日 山名時氏家老歟忠孝(花押影)」

 「観応2年(1351)6月13日の山名時氏奉行人奉書(三刀屋文書)には、石見国の磯武氏に与えられた恩賞地として「岡本郷 笠間長門守跡」がみえる。三刀屋氏の姻戚と推定される笠間長門守がいつから岡本郷を知行していたか明らかでない*3

 2点の文書により出雲国岡本郷に関しては、笠間長門守の子息「小法師丸」の時に領地を失ったと思われる。この笠間長門守が何者かについてだが現時点では明確な答えはない。

尊経閣文庫所蔵文書の『暦応5年(1342)2月21日付熊谷直遠請文』によると、安芸国甲立荘の遵行に対して、「笠間長門権守」と共に行ったとの記載がある。この笠間長門権守と「出雲国の笠間長門守」は同一人物である可能性がある。出雲国に、安芸国とは同族の笠間氏がいたのか、もしくは安芸国の笠間氏が出雲国にも所領を持っていたのかは検討が必要であろう。

*1:平凡社『日本歴史地名大系第33巻 島根県の地名』234頁

*2:注1と同様

*3:注1と同様

笠間城に関する所感(余談)

  • 余談

 令和8年3月21日に笠間公民館で、「笠間城跡の測量結果と出土遺物展」が開催されました。連載した記事の内容は、㈲三井考測からの解説の範囲内で再構成しています。3月28日に現地確認を行っている時に、笠間城内で撮影した写真を基に記事を作成することにしました。今回の記事は、「笠間城跡の測量結果と出土遺物展」とは関係なくなるのでご了承下さい。

 

①笠間城の城門

二之門,中之門,玄関門の位置図

①二之門

二之門跡より撮影

二之門 常州笠間城圖(南葵文庫)より

二之門脇の石垣①

二之門イメージ図

 二之門跡地には、管見の限り礎石は確認できていない。昭和39年に新設された道路により消滅したか、堆積土で覆われているか検証が必要である。また、二之門跡の脇に石垣が確認できた。二之門の石垣の一部だった可能性が有る。

 笠間城跡保存整備基礎調査報告書によると、「二の門両側に描かれている小規模な石積みも消滅したと考えられる。」とありますが、私は一部残存していると考えています。

2026年5月30日に再度訪問し、確認したのが以下の写真です。

 

赤のライン上に二之門があったと思われる。

赤のラインの箇所を横からみた写真

『二之門脇の石垣①』を横からみた写真。赤のライン上にある。

 上記の写真からもわかるように、二之門脇の石垣は、門があったと思われる赤のライン上にあり、城絵図の描写と矛盾はない。

 

②中之門

中之門跡より撮影

中之門の礎石か?

中之門 常州笠間城圖(南葵文庫)より

  宝暦5年城修復伺絵図と、南葵文庫蔵笠間城圖を比較すると、南葵文庫蔵笠間城圖の方だと、中之門の箇所に石垣が見られませんが、宝暦5年城修復伺絵図の方だと、石垣が見られます。

中之門の石垣については検証が必要である

ちなみに、享保4年笠間城破損ヵ所分間絵図は、宝暦5年絵図と同様に石垣が描かれている。

 笠間城跡保存整備基礎調査報告書によると「中の門は、西側の石積みの一部が残る。修復伺絵図では中の門の東側にも数十メートルにわたり石積みが描かれているが、この石積みは道路により破壊され消滅している。*1

 2026年5月30日に再度訪問し、確認したのが以下の写真です。草木が茂っているためよく見えないが、石のようなものが見える。中の門の石垣の一部と思われる。基礎調査報告書に記載のあった「西側の石積みの一部」とは、この箇所であろう。

f:id:kanhito:20260708021110j:image

赤で囲った箇所が中之門の東側の石垣

 基礎調査報告書に記載のあった「中の門の東側…石積みは道路により破壊され消滅している。」とは、この箇所の石垣の事であろう。

 

③玄関門

玄関門跡より撮影

玄関門の礎石

玄関門 常州笠間城圖(南葵文庫)より

 

宝暦5年常陸国笠間城修復伺絵図(玄関門)

 宝暦5年城修復伺絵図と、南葵文庫蔵笠間城圖を比較すると、南葵文庫蔵笠間城圖の方だと、手前の階段を上がるとすぐに玄関門という構造ですが、宝暦5年城修復伺絵図の方だと、階段が上がったら、塀に囲まれた空間があり、その先に玄関門がある構造です。玄関門の位置については検証が必要である

ちなみに、享保4年笠間城破損ヵ所分間絵図も宝暦5年絵図と同様の構造である。

  

 2026年5月30日に再度訪問し、確認したのが以下の写真です。天明6年の修復伺絵図でも、玄関門付近の描写を確認しましたが、宝暦5年絵図と同じ描写でした。

 現地で確認したところ、石段を上がったら、写真Aのように、地面に一列に石が埋め込まれいるのがわかる。この石列が玄関門と関連性があるなら、この箇所に玄関門が建っており、玄関門と、石段との間にスペースがあるという事になる。

しかし、写真Bをみると、礎石と思われる石は、石段側に近い場所にあり、写真Aの石列の直線上には無い。礎石の場所から見ると、門は石段に近い場所にあり、南葵文庫蔵笠間城圖の描写の方が近くなる。そのため、現地確認した結果、玄関門の位置に関して結論は出ず、笠間市の調査報告書を待ちたいと思う。

玄関門の付近の石敷(写真A)

玄関門の礎石の場所(遠景)【写真B】

玄関門の礎石と思われる石

 

  • 登城路について

 笠間城跡のある佐白山は、昭和39年に「佐白山観光道路」が新設されている。そのため、車道を通すにあたり、特に三の曲輪がかなりの改変を受けている。

 城絵図と、現地の遺構から当時の三の曲輪の様子を考察する。

 現在の出入り口は、①の地点ですが、当時は本丸に「裏門」がありました。現在、絵図に描かれた裏門および脇の石垣の痕跡は見当たりませんが、裏門に至る旧登城路の途中にあったと思われる石垣(青のマーカー線が石垣の箇所です。)が残存している可能性があります

現在の三の曲輪の様子

宝暦5年常陸国笠間城修復伺絵図(三の曲輪)

享保4年笠間城破損ヵ所分間絵図(三の曲輪)

 

三の曲輪 説明図

①の地点から撮影した写真

②の地点から撮影した写真

 赤枠で囲った箇所に石垣があります。

三の曲輪の石垣

 

 また、玉滴の井戸に下りる前に「東門」があった。階段もしくは坂道があったと思われる。しかし、裏門と同様に現在、東門および通路の痕跡は残っていない。

三の曲輪(東門跡地付近)

・佐白山観光道路の舗装路から、玉滴の井戸を見下ろす位置で撮影。この辺りに東門があったとされる。

三の曲輪(玉滴の井戸付近)

・玉滴の井戸の場所から、先程の撮影場所を見上げる形で撮影。山の斜面が擁壁で改変されたことが分かる。このため、ここに下りる通路(恐らく階段か坂道か?)が破壊されたと思われる。

*1:2014「笠間城跡保存整備基礎調査報告書」49頁

笠間城に関する所感(4)

  • 笠間城の発掘調査の成果について

 令和8年3月21日に笠間公民館で、「笠間城跡の測量結果と出土遺物展」が開催されました。笠間城跡の測量、発掘調査に関してのパネル展示、出土遺物の一部展示及び㈲三井考測からスライドを用いた説明がありました。

 ⑤本丸跡

 最後に本丸跡について説明します。

微地形調査によると、以下の事が分かっています。

・櫓跡、「(八幡台)櫓の礎石と考えられる石材9石がみられる。同じように、宍ヶ崎櫓跡の場所でも、地表面に櫓の礎石と考えられる石材8石がみられる。『常陸国笠間之城絵図』には、南東隅に隅櫓が描かれているが、測量結果から明確な痕跡は確認されなかった。」

・門跡、「絵図上では4か所描かれているが、現地で確実な痕跡がみられるのは2か所である。…(玄関前)門の礎石が一つ確認でき、方形に並んでいたであろう石列も確認できる。また、…東櫓門は、門の礎石と考えられる石材9石が確認できる。…」

笠間城本丸跡

笠間城本丸跡(御殿跡)

 本丸には「御殿」があったと言われるが、微地形調査で御殿の痕跡の確認できなかったとの事です

 

宝暦5年常陸国笠間城修復伺絵図(八幡台櫓部分)

 

本丸跡(八幡台櫓跡)(1)

本丸跡(八幡台櫓跡)(2)

宝暦5年常陸国笠間城修復伺絵図(東櫓門部分)

東櫓門跡(礎石の一部)

笠間城本丸跡(玄関門跡)

玄関門跡(礎石の一部)

笠間城に関する所感(3)

  • 笠間城の発掘調査の成果について

 令和8年3月21日に笠間公民館で、「笠間城跡の測量結果と出土遺物展」が開催されました。笠間城跡の測量、発掘調査に関してのパネル展示、出土遺物の一部展示及び㈲三井考測からスライドを用いた説明がありました。

④笠間城跡北西の遺構

 次は、笠間城跡北西の遺構について説明します。

微地形調査によると、以下の事が分かっています。

・堀 「北西先端をコの字型に囲む堀(堀切)とそれから西に伸びる尾根筋を分断するように作られた堀切が存在する。東側の土塁上の深さはそれぞれ約7mと4mの深さとなる。…」

・土塁「北西先端部分にコの字にみられるものと、北西尾根にみられる堀切に付随するような土塁跡が確認できる。北西先端部分の土塁は約1mの高さ。」

・虎口「登坂路の屈折する部分の平坦地を通過して、北西平坦地に進入できる通路があり、ここを虎口であると推測した。…」

笠間城跡北西の遺構

①の地点から撮影(入口)

①の地点から撮影(平坦地側)

②の地点から撮影(虎口跡)(1)

②の地点から撮影(虎口跡)(2)

 

 虎口の構造としては、下から登ると、一旦青の四角に囲った平坦地に到来する。それから直角に曲がって、侍屋敷のあった曲輪に到来する。1枚目の写真は、2枚目の赤丸の箇所を撮影したものである。

③の地点から撮影(堀切)(1)

③の地点から撮影(堀切)(2)

④の地点から撮影(1)

④の地点から撮影(2)

④の地点から撮影(3)

 赤線より上が現存している土塁である。

また、笠間城北西の遺構より「須恵器(古代)、羽口、軒丸瓦、平瓦、かわらけ、天目茶碗、陶器、土器類、瀬戸・美濃」が出土した。しかし、須恵器以外は、江戸時代のものであり、中世のものは発見されなかった

 

続きは別の記事にて紹介します。

 

 

笠間城に関する所感(2)

  • 笠間城の発掘調査の成果について

 令和8年3月21日に笠間公民館で、「笠間城跡の測量結果と出土遺物展」が開催されました。笠間城跡の測量、発掘調査に関してのパネル展示、出土遺物の一部展示及び㈲三井考測からスライドを用いた説明がありました。

 最初は、大手門跡について説明しましたが、次は、正福寺跡について説明します。

②正福寺跡

微地形測量調査により、以下の事が分かっている。

⒈塔跡と思われる、約8.6m×8.6mの方形の基壇上地形がみられ、60cm~90cm程度の石材5点がみられる。

⒉堀は、北西部に展開する。規模は最大箇所で上幅約22m。深さ約14m。傾斜角は最も急な箇所で約60°となる。

⒊土塁は、堀の北側に展開するものは、地山削り出しで作られた可能性がある。

 

正福寺跡

正福寺跡入口にて撮影

塔跡の礎石?(1)

塔跡の礎石(2)

 現地で確認したところ、規制線が張られていたため、中に入っての確認ができなかった。遠巻きからでも石材が目視できた。

また、正福寺跡にある堀切、土塁に関しては、現地での確認ができなかった。㈲三井考測の担当者は、「堀切、土塁は、正福寺の時に造られたものでは無く、城郭の一部だったのではないか?」と考えています。

 

次は、正福寺跡東側の遺構について説明する。

③正福寺跡東側の遺構

正福寺跡東側の遺構

 微地形測量調査により、以下の事が分かっている。

⒈曲輪 「一番顕著なのはピークの平坦地であり約4,200㎡。内部には区画と考えられるくぼみが見れる。それ以外に虎口、土塁、櫓台などもみられる。曲輪状の平坦地は、測量地内の7割、29か所が該当する。」

⒉堀 「測量地内の3か所に見られる。図面東端付近の堀(堀切)は規模が大きく、東側に続く平坦地へは容易に近づけない。また、その西側にある鍵型の堀も、北東の地形を分断するように配置されている。北西の虎口付近にあるくぼみも堀と考えられるか。」

また、正福寺跡東側の遺構より「かわらけ、軒丸瓦、陶器類、磁器」が出土した。

 

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 出土したかわらけに関しては、中世由来であることが推測されている。具体的には、「堀跡の延長部分のトレンチ(T7)では、…堀の形状は箱堀(箱薬研か)状であり、…覆土中からかわらけが出土しており、16世紀後半代のものと推測される。」

「中世まで遡る遺構については、土塁と堀跡で一部確認できたのみ。」との事です。

 

続きは別の記事にて紹介します。

笠間城に関する所感(1)

笠間城跡保存整備事業について

 令和8年3月発行の広報かさま内の市長コラムにて、今後の笠間城調査方針が示されています。

 「令和8年度には笠間城の総合調査報告書を刊行し、令和9年度には(国の文化財*1指定が受けられるよう進めてまいります。」と、山口市長及び笠間市の考えが改めて示されました。

 国史跡の定義として、文化庁は「『文化財保護法』では、『貝塚、古墳、都城跡、城跡、旧宅、その他の遺跡で、我が国にとって歴史上または学術上価値の高いもの』のうち重要なもの*2」と示しています。また、笠間市の方でも、国の指定史跡である中世城郭の評価基準として、「ア 地域の歴史を考える上で、重要な歴史的事象の舞台となっていること。イ 特色的な縄張りや遺構がみられること。ウ 遺跡の保存状態が良好であること。*3」との考えを示している。

笠間城の国指定史跡を目指す上で、笠間市の方で課題の一つに挙げているのが、笠間城の「中世」の証明であり、その証明をするため、長年に渡る測量、発掘調査が行われてきた経緯があります。

 

  • 笠間城の発掘調査の成果について

 令和8年3月21日に笠間公民館で、「笠間城跡の測量結果と出土遺物展」が開催されました。笠間城跡の測量、発掘調査に関してのパネル展示、出土遺物の一部展示及び㈲三井考測からスライドを用いた説明がありました。全て説明することは難しいですが、私なりに内容をまとめて記事を作成しています。

最初に大手門跡について説明します。

①大手門跡

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この写真は、現在の大手門跡を撮ったものである。

今はアスファルトで舗装されているが、下記の絵図のように当時は木橋を渡った先に大手門があった。

宝暦5年常陸国笠間城修復伺絵図(大手門部分)

笠間城大手門イメージ図(Geminiで作成)

イメージ図では、木橋の下の堀が表現できていないが、当時はこのような風景だったかもしれない。

 大手門跡での成果としては、今まで土に埋もれていた石垣を発見している。

該当する石垣は、宝暦5年の城絵図の内の赤枠で囲った箇所のものです。

①の所から見た石垣

②の所から見た石垣(1)

②の所から見た石垣(2)

 ㈲三井考測からの解説の内容を下記に記載する。

・大手門脇の石垣に関して、野面積と、切り込み接ぎの石垣があることから、修復された時期があることが分かる。

・石垣が崩れて、裏込石が露出している箇所がある。(②の所から見た石垣(2)参照)

・階段跡と思われる箇所があった。(筆者の方ではどの石が階段跡か確認はできませんでした。)

・大手門跡東方張り出し部より「軒丸瓦」が出土している。塀か大手門の瓦と思われる。

 

続きは別の記事にて紹介します。

 

 

 

*1:記事では省略しているため、追記

*2:文化庁ホームページ「史跡とは」よりbunka.go.jp(2026年5月3日確認)

*3:笠間市教育委員会「笠間城跡保存整備基礎調査報告書」2014

東北大学附属図書館狩野文庫所蔵「常州笠間城天守繪圖」について 続報

drive.google.com

sashinou.hatenablog.jp

 以前、記事にした「東北大学附属図書館狩野文庫所蔵『常州笠間城天守繪圖』」に関して、新たな情報が見つかりました。絵図の隅に「坂口蔵」と書かれていたため、笠間城本丸の蔵の名称だと考えていました。しかし、狩野文庫に収蔵される前に、「坂口」という人物の蔵書だったという可能性が出てきたのです。

https://drive.google.com/file/d/1LxHeT0HXt1d7EsLll_YXieNomsqWIRDy/view?usp=sharing

 

  • 先行研究より(島根大学附属図書館報第20号)

 今回の記事で引用する論文は、島根大学附属図書館報第20号内の舩杉 力修氏『畿内における譜代大名城下町の基礎的考察(1)—山城国淀を事例として―』です。論文著者の舩杉氏は、島根大学法文学部社会文化学科の教授です。

 舩杉氏は、『坂口蔵』とある絵図を4点例示している。「1点目は、国立国会図書館の古典籍資料室所蔵の和装本『宇治河沿岸図』に『坂口蔵』と墨書があり、…2点目は、東北大学附属図書館狩野文庫所蔵の『奥州福島城下大火之図』で『坂口蔵』と墨記がある。…3点目は、同じく東北大学附属図書館狩野文庫所蔵の『勢州桑名之図」で、*1

4つ目は、舩杉氏の本論文で紹介されている西尾市岩瀬文庫所蔵『淀惣絵図』です。

 また、舩杉氏は、「4点の絵図の内容を比較すると、『淀惣絵図』と『勢州桑名之図』は城下町絵図、『宇治河沿岸図』は宇治川の絵図、『奥州福島城下大火之図』は、城下町の大火の絵図であり、4点とも絵図の範疇にあったとしても、…それぞれ絵図の作成目的が異なることから、…『坂口蔵』の坂口は、絵図などの収集家であった可能性がある。」と考察している。しかし、舩杉氏も坂口が何者かは不明としている。

 

  • まとめ

 舩杉氏の論文からもわかるように、東北大学附属図書館狩野文庫所蔵『常州笠間城天守繪圖』にも、『坂口蔵』と墨書があるのは、狩野文庫の前の旧蔵者が坂口氏であることは間違いない。舩杉氏の4点の例示中、2点が狩野文庫所蔵の絵図であり、常州笠間城天守繪圖を加えると、3点である事は興味深いと思います。他の狩野文庫の絵図の中にも『坂口蔵』と書かれている可能性が有ります。しかし、坂口氏に関して特定に至っておらず、今後の狩野文庫の伝来過程の研究の進展を期待しています。

*1:舩杉力修(2018):『畿内における譜代大名城下町の基礎的考察(1)—山城国淀を事例として―』10頁、島根大学附属図書館