常陸笠間氏の歴史考察

あまり知名度のない国衆。下野宇都宮氏の親類衆。

笠間大膳について

南部藩における笠間氏について

 ヤフーオークションで出品されていた『笠間家永代御証文、笠間家譜』に着目し、その古文書の内容について調べてみた。

特に笠間家譜の内容を確認すると、江戸時代の南部藩に仕えた笠間氏の系図であると判明した。同様の内容が、「南部藩参考諸家系図」にあったため、その記述を基に話を進める。

 笠間氏の出自に関して「姓藤原、紋隅切角内左三巴、生國常陸笠間ノ人也」とあり、某(笠間大膳)から綱輝(笠間三之介)へと家督継承が行われている。

注目したいのは、二つあり、一つ目は、笠間大膳が何者かという点。二つ目は、綱輝の経歴である。

 常陸国笠間氏の官途は代々長門守であり、大膳と官途名を名乗った文書はないため、推測になるが、秋田文書館所蔵の「諸士系図」の福田氏系図内に「天正十三年九月笠間大膳藤原綱家假名及名ノ一字ヲ授クル」の記述が正しければ、笠間大膳=笠間綱家となる。ただ秋田藩家蔵文書所収の笠間綱家名字状写には、「綱家」としか署名されていないため、福田氏系図が伝えるように、笠間綱家の官途名が大膳なのかは確証がない。

 また綱輝の経歴について「佐竹左中将義宣ニ常陸ニ仕フ、後伊達遠江守秀宗ニ仕フ、去テ浪人ニテ江戸二住ス、重直公万治中江戸二於テ召抱ラレ、和賀郡轟木村二三百石ヲ賜フ、」とある。非常に興味深いが、裏付けが取れない。

 

笠間綱家書状

笠間綱家書状写

茨城県史料中世編5 (発行年1994年)

「…石治(石田三成)も迷途迄御下之由候、■■■之間、当地ニ者みよしの中納言三好吉房)御座候由ニ候、芳十(芳賀高武カ)者昨廿六下二候、屋形(宇都宮國綱カ)者軈而御下与申候、…六月廿七日」

この書状は、綱家から寺惣へ書かれたものである。

ちなみに寺崎廣良が後に藤兵衛に名を改めているため、寺惣も寺崎氏の一族であることが考えられる。笠間氏から離れて、今泉但馬守高左に仕えていたようである。

→注記に「考文禄元年ノ書カ」とあるように、秋田藩文書所では、『とせん』の文言がることを根拠に『渡鮮』つまり文禄の役の時の文書と考えたことが推認される。

→年未詳となっている。

→■■■の箇所は、『囲出陣』と読む説がある。

 

全国国衆ガイド 笠間氏の項

「…小田原合戦では、国綱に従い秀吉に拝謁し、その後宇都宮氏家臣として文禄頃まで活動が見られる」とのように上記の書状を基にしたと思われる記述がある。

 

くずし字解読 古文書探偵 巻島隆氏より引用

「…文禄元年(1592)のもの(恐らく「とせん」を「渡鮮」、即ち朝鮮出兵と解釈しているから)と推定の書き込みがありますが、内容を検討すると、果たしてそうなのかと思わせる箇所があります。…「見よしの中納言」ですが、三好中納言秀次(実父の三好吉房中納言に昇進してないので)だとすると、文禄の役の段階では関白職に就いて豊臣家を継承しており、姓も官職も全く違います。これを天正19年(1591)2月に勃発した九戸政実の乱だと考えると、まだ秀次は中納言であり、またこの折に石田三成も宇都宮国綱も出陣しているので、私の読みの「奥陣」も妥当性が高くなります。…」

→年号を天正19年に比定している。(秋田藩文書所の文禄元年説を否定)

→根拠として、『みよしの中納言』に関して、茨城県史では『三好吉房』と比定しているが、巻島氏は、三好秀次と比定していることや、秀次が中納言の官位だった時期から考えると、九戸政実の乱の時(天正19年)の方が妥当性が高い。

 

心引斎道箭書状

戦国遺文下野編

「急度令啓候、抑此度身躰ニ付而、屋形様、愚入事別而御不便ニ思召候、誠ニ御先祖之分、入道従若輩時分、無二忠信存詰候、加様之処、御家老之旁々、連々被御申上故与奉存候、恐何与可奉報候哉、畢竟其方御走廻難謝止候、其故者上総守長々宮中ニ指置、御宿老中ヘ其調ヲ申候、不被懸上総御辛労、具致伝語候、芳志難報候、先為書中御礼申候、恐々謹言、

心引斎 道箭(花押)*1 (天正六年)菊月晦日

小宅刑部少輔殿*2 」

 

・栃木県史史料編中世1(出版年1973年)

「心引齋 道箭(花押)  菊月晦日

→年未詳となっている。

 

・真岡市史第2巻(古代中世史料編) (出版年1984年)

「心引斉 道箭(花押)  菊月晦日

→真岡市史では、芳賀高広と人物比定をしている。

→年未詳となっている。

 

益子町史第2巻(古代・中世史料編)  (出版年1985年)

「心引齋 道箭(花押)  菊月晦日

→年未詳となっている。

益子町史の解説文中でこのような文言がある。「上総守を長々と宇都宮に指し置き、家中のために働かせたことに対し、小宅刑部少輔に礼を述べているところから、この上総守は、小宅氏の一族と見なしうる。」*3

 

・戦国遺文下野編第2巻 (出版年2018年)

「心引斎 道箭(花押)  菊月晦日

天正6年の書状と比定されている。道箭に関しては、笠間高広と比定している。

 

*1:笠間高広

*2:高秀カ

*3:益子町史第2巻413頁

笠間氏研究①

 常陸笠間氏の研究は、『笠間城記』の記述を基礎とし、そこに古文書を加えて語られることが多い。ただ先行研究でも語られているように、笠間城記の誤りも指摘されており、また笠間氏が滅亡していることから、研究の基礎となる古文書が少ないという問題もある。

 断片的に研究が進められている笠間氏の研究成果をまとめて、体系的にまとめようとすることが私の狙いである。

安芸笠間氏について 追記

 ・角川日本地名大辞典 広島県

 

 安芸笠間氏の足跡として、神社、寺院の伝承について追記する。

 今吉田村の項目より「神社には、甲斐国祠官森高六郎左衛門の勧請とも槙尾山城  主笠間遠江の造営ともいわれる八幡宮と明応年中笠間城主笠間下野勧請の熊野権現社とがあり、寺院には笠間下野の菩提所で元和5年禅院から真宗へ改宗の仰誓山薬王寺がある。」*1

 また、吉木村の項目より「神社の金高山宇都宮大明神は奉行藤原信貞・藤原広良の建立で往古下野国伊豆社を都志見村宇都田に勧請、永万元年現在地へ奉遷した」*2