心引斎道箭書状
戦国遺文下野編
「急度令啓候、抑此度身躰ニ付而、屋形様、愚入事別而御不便ニ思召候、誠ニ御先祖之分、入道従若輩時分、無二忠信存詰候、加様之処、御家老之旁々、連々被御申上故与奉存候、恐何与可奉報候哉、畢竟其方御走廻難謝止候、其故者上総守長々宮中ニ指置、御宿老中ヘ其調ヲ申候、不被懸上総御辛労、具致伝語候、芳志難報候、先為書中御礼申候、恐々謹言、
小宅刑部少輔殿*2 」
・栃木県史史料編中世1(出版年1973年)
「心引齋 道箭(花押) 菊月晦日」
→年未詳となっている。
・真岡市史第2巻(古代中世史料編) (出版年1984年)
「心引斉 道箭(花押) 菊月晦日」
→真岡市史では、芳賀高広と人物比定をしている。
→年未詳となっている。
・益子町史第2巻(古代・中世史料編) (出版年1985年)
「心引齋 道箭(花押) 菊月晦日」
→年未詳となっている。
益子町史の解説文中でこのような文言がある。「上総守を長々と宇都宮に指し置き、家中のために働かせたことに対し、小宅刑部少輔に礼を述べているところから、この上総守は、小宅氏の一族と見なしうる。」*3
・戦国遺文下野編第2巻 (出版年2018年)
「心引斎 道箭(花押) 菊月晦日」
→天正6年の書状と比定されている。道箭に関しては、笠間高広と比定している。