常陸笠間氏の歴史考察

あまり知名度のない国衆。下野宇都宮氏の親類衆。

笠間綱家書状

笠間綱家書状写

茨城県史料中世編5 (発行年1994年)

「…石治(石田三成)も迷途迄御下之由候、■■■之間、当地ニ者みよしの中納言三好吉房)御座候由ニ候、芳十(芳賀高武カ)者昨廿六下二候、屋形(宇都宮國綱カ)者軈而御下与申候、…六月廿七日」

この書状は、綱家から寺惣へ書かれたものである。

ちなみに寺崎廣良が後に藤兵衛に名を改めているため、寺惣も寺崎氏の一族であることが考えられる。笠間氏から離れて、今泉但馬守高左に仕えていたようである。

→注記に「考文禄元年ノ書カ」とあるように、秋田藩文書所では、『とせん』の文言がることを根拠に『渡鮮』つまり文禄の役の時の文書と考えたことが推認される。

→年未詳となっている。

→■■■の箇所は、『囲出陣』と読む説がある。

 

全国国衆ガイド 笠間氏の項

「…小田原合戦では、国綱に従い秀吉に拝謁し、その後宇都宮氏家臣として文禄頃まで活動が見られる」とのように上記の書状を基にしたと思われる記述がある。

 

くずし字解読 古文書探偵 巻島隆氏より引用

「…文禄元年(1592)のもの(恐らく「とせん」を「渡鮮」、即ち朝鮮出兵と解釈しているから)と推定の書き込みがありますが、内容を検討すると、果たしてそうなのかと思わせる箇所があります。…「見よしの中納言」ですが、三好中納言秀次(実父の三好吉房中納言に昇進してないので)だとすると、文禄の役の段階では関白職に就いて豊臣家を継承しており、姓も官職も全く違います。これを天正19年(1591)2月に勃発した九戸政実の乱だと考えると、まだ秀次は中納言であり、またこの折に石田三成も宇都宮国綱も出陣しているので、私の読みの「奥陣」も妥当性が高くなります。…」

→年号を天正19年に比定している。(秋田藩文書所の文禄元年説を否定)

→根拠として、『みよしの中納言』に関して、茨城県史では『三好吉房』と比定しているが、巻島氏は、三好秀次と比定していることや、秀次が中納言の官位だった時期から考えると、九戸政実の乱の時(天正19年)の方が妥当性が高い。