常陸笠間氏の歴史考察

あまり知名度のない国衆。下野宇都宮氏の親類衆。

安芸笠間氏について

 笠間氏といえば、常陸の笠間氏が思い当たるが、それ以外の国にも笠間氏を称する一族がいたことが、研究により知られている。私見では、安芸国伊予国に存在した。

まず、安芸国の笠間氏に関してわかっていることをまとめる意味で記事を執筆する。

 

鎌倉時代の笠間氏

史料上安芸国で初見されるのは、熊谷家文書からである。

 

熊谷家文書『關東下知状』「…安藝國…吉木村三分一 但、此地者、笠間下野入道横領間、於六波羅訴申之由、直経申之、…嘉暦三年七月廿三日…」*1

 

 この文書から鎌倉時代後期から、安芸国において笠間氏を称する者が、吉木村を熊谷氏から押領し、実効支配していたことが分かる。

 

室町初期の笠間氏                                    

室町時代初期には、安芸国内にて笠間朝清という人物の存在が確認できる。

 暦応五年、康永元年、貞和二年、延文二年において安芸国内の遵行使に任じられている。「遵行は当該地の近隣の御家人ニ人によって実施されるのが通例」*2であったため、笠間朝清は安芸国内に所領を持つ国人と考えられる。

 

 尊経閣文庫文書「暦応5.2.21 平(熊谷)直遠・笠間長門權守」*3

 将軍家(足利尊氏)御教書「…笠間但馬權守…康永元年十二月十二日 左衛門佐 三田安藝五郎入道殿」*4

 密井文書「…笠間但馬權守朝清、吉川孫太郎経貞…貞和二年二月廿七日 左兵衛督源朝臣(直義)」*5

 厳島文書「…熊谷彦四郎入道相共、…延文二年十二月六日 下総守朝清 請文」*6 

 

 笠間下総守朝清は延文二年の請文の中で「宇都宮大明神御罰候」と誓約していることから、宇都宮大明神を信仰している常陸の笠間氏と同族である可能性がある。

 

室町中期後期の笠間氏                                      

 笠間氏に関して萩藩通志には、「栗栖幸信 越後と称す、弟兵部、宍戸大炊等と、京都より来り、吉川氏に属し、阿坂村笠天城(かさま)を築て、これに居たり、後に笠間を氏とす、」との話が掲載されている。また広島県史には、同様に「笠間山 笠間氏の居、笠間氏本氏は栗栖、姓は紀、永正中幸信、幸親兄弟宍戸大炊等と、京都より来りて、共に吉川氏に属し、ここに住すといふ。」との話が掲載されている。ただ、上記の記事は一次史料の根拠がないため、真偽は不明である。

 史料からは、享禄四年の文書に笠間氏の名が出てくる。

毛利元就證状「…此内鈴張事者、笠間申合候条、彼仁可被仰合候、…享禄四潤五月九日 元就 吉川次郎三郎殿」*7

 また天文年間の文書にも笠間氏の名が出てくる。

 青景隆景書状「吉川殿、笠間、出羽両三人續目御判、幷任官御吹挙状可相調候、…次笠間事者、先度如申候、彼父元朝依申之、…(天文十八年)卯月十五日 隆景 策雲参 侍者禪師」*8

 この書状からは、天文十八年に笠間氏の当主が変更になり、大内氏から家督承認と、官途称が許されたこと、父が元朝という名であることがわかる。

 吉川氏では、興経から元春へ家督継承し、治部少輔の官途称が許され、出羽氏では、祐盛から元祐へ家督継承し、民部大輔の官途称が許されたと考えられる。笠間氏も他2家と同様に、当主に恐らく修理亮の官途称が許されたと推測する。

 上記書状が出された翌年の天文十九年九月の時点で笠間氏は滅亡していた可能性がある。

 陶隆房書状「…笠間修理亮跡之事、可有御進退之候、元就可被仰談候事肝要候、…(天文十九年)九月六日 隆房 吉川治部少輔殿御返報」*9

 毛利元就同隆元連署證状「笠間知行之内、吉木都志見戸谷、従此節可有御知行之由、得其心候、…(天文十九年)九月七日 隆元 元就 吉川治部少輔殿 参」*10

 天文十九年九月の時点で、笠間修理亮は何らかの理由で亡くなったもしくは、闕所処分となったことが「跡」の文言からわかる。陶隆房の了承の下に笠間氏の遺領(吉木・都志見・戸谷)が吉川元春に充行かれている。

 安芸笠間氏が滅亡した要因として、木村信幸氏は「陶隆房のクーデターでは義隆に与して滅亡したものと思われ」*11るとの説を唱えている。

その後の安芸笠間氏

 上記論文中に、木村氏は、吉川同名衆の吉川下野守経重、吉川刑部少輔経景が「安芸国衆笠間氏の名跡を継承したのであろう*12」としている。「経言書状の写の一つには、経景に『笠間殿』の注記がある」ことや、「経重・経景が領有した『安坂・今吉田』は」、吉川元春に宛行かれた領地」の一部と思われ」ることを論拠としている。                 

*1:大日本古文書家わけ第十四 第一 熊谷家文書46

*2:外岡慎一郎『鎌倉末~南北朝期の備後・安芸』

*3:上記外岡氏論文87頁より引用

*4:大日本古文書家わけ第十四 第一 熊谷家文書73

*5:大日本史料第六編之九855頁

*6:大日本史料第六編之二十一409頁

*7:大日本古文書家わけ九ノ一 吉川家文書383

*8:大日本古文書 家わけ九ノ一 吉川家文書606

*9:大日本古文書家わけ九ノ一 吉川家文書449

*10:大日本古文書家わけ九ノ一 吉川家文書450

*11:木村信幸『戦国後期における吉川氏の権力構成』53頁

*12:木村氏論文53頁

笠間綱家の妻について

・笠間綱家の妻について

『佐竹分脈系図』の大山氏の項で大山因幡守義景の娘が、「笠間孫三郎綱家ニ嫁ス」との記載がある。

また、大山氏からの嫁入りを勧めたのは、家宰である寺崎氏の可能性が高い。

『諸士系図』の寺崎氏の項で、「天正十五六年の頃、綱家妻なきに依て、出羽守議て、大山因幡守義景の女を娶らしむ時に、笠間氏の臣路川大和守某叛逆め、綱家及び出羽守父子を亡さんとす。」という記事がある。

記事の真偽が不明だが、この内容が本当であれば、路川大和守の謀反は、佐竹氏庶流大山氏からの嫁入りに反対したことがきっかけの一つであったことが想定される。

天正18年中に笠間綱家が、闕所処分を受けた以降の綱家の妻の動きは不明である。実家の大山氏に戻ったのか?綱家と行動を共にしたのか?

今後、闕所後の綱家がどのような行動をしたのかが研究課題である。

 

drive.google.com

 

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引用

東京史料編纂所「佐竹分脈系図」より引用。

秋田公文書館「諸士系図」より引用。

 

笠間綱家の花押

・笠間綱家の花押は2種類確認されている。

パターン1は下記のような天正年間~天正18年に用いられた花押です。
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・パターン2は下記のような花押です。天正19年以降の文書に見られるもので、宇都宮氏から闕所処分となり、宇都宮の館に幽閉されていたと思われる時期の花押です。

①寺崎文書(六月廿七日)

「考文禄元ノ書カ」と秋田藩記録所の注記がある。おそらく書状中の「とせん」を渡鮮と解釈して文禄・慶長の役の時書かれたものと判断したと考える。

ただ一説として、「『見よしの中納言』ですが、三好中納言秀次だとすると、文禄の役の段階では関白職に就いて豊臣家を継承しており、姓も官職も全く違います。これは天正19年(1591)年2月に勃発した九戸政実の乱だと考えると、まだ秀次は中納言であり、…私の読みの『奥陣』の妥当性が高くなります。」*1という解釈もでき、この説だと天正19年6月27日と比定しています。
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②福田文書(天正拾九年正月吉日)

笠間綱家官途状写「官途之事 綱家(花押影) 天正拾九年正月吉日 福田大炊頭殿」

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*1:巻島隆「ココナラ、くずし文字解読古文書探偵氏」

戦国期書状の年代比定②

  • 対象となる書状

今回の記事の対象となる書状は次の通りである。

史料3 笠間綱家書状(瀧田文書、孟夏二十六日)

 

  • 月井氏説

栃木県立文書館研究紀要第15号より引用する。月井氏は、「天正十六年孟夏頃と思われる書状」としている。

同書47頁の註釈に年代比定の根拠が示されている。月井氏は、「年代比定については、後北条氏常陸在陣が記された、天正十六年三月推定の文書二通との関連性による(北条氏政書状(幡谷文書、『戦国遺文後北条氏編第四巻』No.3296)・北条氏政書状写(押田家文書中、同書No.3296))。」としている。

 

  • 戦国遺文の説

戦国遺文下野編第二巻の256頁に「天正十六年」と年代比定している。

 

私が知る限りの書籍、論文からは、「天正十六年四月二十六日」で比定されている。

戦国期書状の年代比定①

  • 対象となる書状

今回の記事の対象となる書状は次の通りである。

史料1 佐竹義重書状(多功文書、五月廿二日)

史料2 宇都宮国綱書状写(寺崎文書、霜月九日)

 

  • 月井説(史料1)

栃木県立文書館研究紀要第15号  月井剛『笠間氏の服属過程一起請文の交換に着目して一』より引用する。

月井氏は、「天正十三年または天正十四年頃の文書と思われる。」としている。(同書p40)

また、書状の内容を紹介していたので、これも引用する。

「国綱と当時同盟を結んでいた佐竹義重が、宇都宮氏一族の多功氏へ宛てた書状である。笠間氏に軍事的圧力をかけるため、佐竹一族の佐竹義斯(北家)・佐竹義久(東家)を出陣させたこと、義重自身も出馬を促すよう多功氏に依頼している。」

 

  • 月井氏説(史料2)

月井氏は、「天正十四年」としている。(同書p42)

また、書状の内容を紹介していたので、これも引用する。

『笠間綱家が「不儀」を繰り返していた家臣「路川大和守」を追放し、以後宇都宮国綱に無二に忠信を尽くすという「能仁寺」の裁定を、国綱は歓迎する旨が記されている。』

 

  • 戦国遺文の説

史料1

戦国遺文下野編第二巻の257頁には、

天正十六年』と年代比定している。

 

史料2

戦国遺文下野編第二巻の268頁には、

天正十六年』と年代比定している。

 

 

 

地図からみる笠間氏

常陸国の地図からみた笠間氏

茨城県立図書館デジタルライブラリーの中に、常陸国図(小島忠利写)がある。

その笠間の横に説明書きとして「宇都宮朝綱孫朝業二男時朝築之十七代笠間休心属北條氏天正年中廃ス」と記されている。下部には引書として『古今類聚常陸国誌』と書いてあったため、引用先の内容を確かめることにした。


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古今類聚常陸国誌とは?

引用すると、「…盛朝十五世孫ヲ休心と曰く。休心ガ世に北條氏彊く、関東諸将内附す。休心亦服役す。天正十八年豊関白北條氏を滅し、関東の地を定む。笠間氏党に坐して国を除す。…」※彊く(強く)

ポイントとしては、①笠間休心は、盛朝から十五代目の当主である。②休心の時に北條氏に従属していた。③天正十八年に欠所処分になったことがわかる。


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笠間幹綱とは何者か?

笠間幹綱とは何者か?

  • 笠間幹綱の名は、『関八州古戦録』の中で、戦国期の笠間氏当主として登場している。ただ、私が知る限り一次史料の中で笠間幹綱は出てこない。このことから、笠間幹綱と同時期に活躍していた笠間綱家と同一人物とする説があるが、果たしてそうなのか疑問に思っている。

 

幹綱の正体

  • ずばり、私が考える笠間幹綱の正体は笠間高廣と同一人物であるという説である。前述した『関八州古戦録』と同じようなエピソードが収録されている軍記物として、『宇都宮記』がある。そこで登場する笠間氏当主の名前が「笠間心休」である。

宇都宮記『大和守入道心休』

関八州古戦録『長門守幹綱入道心休』

2つの史料から笠間幹綱は、入道心休という法名を持っていたと考える事ができる。また、毛利家文書の『関東八州城之覚』においても笠間城主の名として「笠間新舊齋」とある。


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字は違うものの、1次史料からも笠間氏の当主として心休斎なる人物がいたことが伺える。ただ、『関東八州城之覚』の記載の中では宇都宮国綱を「友綱」としている等誤字がある。このことから、「新舊齋」という名も誤字、誤伝がある可能がある。

笠間高廣の法名

  • 戦国遺文下野編の中に、「心引斎道箭書状」が収録されている。この心引斎道箭は、笠間高廣と比定されている人物である。古文書の実物は確認できていないが、花押から判断したと推測される。
  • つまり、心休斎は、心引斎の誤字、誤伝であり、幹綱は、笠間高廣のことを指しているのでは?という推測である。
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  • かなり強引な論であるが、今後も調査を進めていき、常陸笠間氏の実情を解明できるように微力ながら貢献したい。